今は去る一千有余4年前、第61代朱雀天皇の御代に平将門は叔父の国香を殺して下総を構え「新皇」を名乗った。
これに対し朝廷側は藤原忠文を征東大将軍に任命し、下野の豪族藤原秀郷と共に将門を討った。
戦に敗れた将門は一族と共に落ちのび関八州を一望に収めるこの城峯山に城を築いた。一方、秀郷もまた将門を追って下吉田村に入り鶴ヶ窪城(現在の吉田小学校を中心とする場所)を築いて激しく攻めたてたが地の利に勝る将門はこれを一歩も寄せつけなかった。
ほどほど弱り果てた秀郷は或る日椋神社に賊徒平定の祈願をした所その夜半鼠の大群が城峯山に押し寄せ、一夜の中に鎧兜の紐をバラバラに喰いちぎってしまった。
この時を逃さず秀郷は一挙に攻めたてて将門を破った。
敗走し岩窟に隠れ再挙を図った将門であったが影武者7人と共についに捕らえられた。
秀郷は将門がいるのか逃げ延びたか大いに迷ったが、将門の愛妾桔梗の前を問い詰めた所ついに耐えられず
”食事の時鬢の毛の著しく動く人が将門なり”
と白状してしまった。
この時、将門眼を怒らせ歯ぎしりして桔梗を睨んで
”桔梗あれども花咲くな”
と言って果て、そのため今もこの城峯山に桔梗の花は咲かないという。
万民上下の区別なく悠久理想の国造りを志し雄図空しく花と散った将門を惜しんで今もなお人の葉の口から口へと語り伝えられる。
資料:秩父観光協会吉田支部
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